BIBLE STUDY

新しい信者のためのQT

キリストの発見(ルカ19:6、ピリピ3:8)

1. クリスチャンであれば誰もがイエス様に出会うことを願うことでしょう。なぜなら、イエスはこの世の何よりも尊くて貴重な宝だからです。 (コロサイ 2:2-3) そして私たちは宝であるイエス・キリストを熱心に探し求めなければなりません。 (マタイ 13:44-46) ここに登場するザアカイはイエスに出会い、救い主として受け入れた人です。そして、彼の人生が根本的に変えられ、祝福された人生を送ることになりました。彼はどのようにしてイエスに出会うことができたのでしょうか?ザアカイの物語を通して「キリストを発見」しましょう。

2. ザアカイは金持ちで、取税人のかしらでした。 (ルカ 19:2) その時代、取税人のかしらは社会的に尊敬を受ける人物ではありませんでした。イスラエル民族にとっては背教者のような存在でした。彼は金持ちで、裕福な生活を送っていた人でした。 しかし、彼はどうにかしてイエスに会いたいという思いから、イチジク桑の木に登ることになりました。 (ルカ19:4) 彼は物質的な豊かさに満足し、安住する人ではありませんでした。人々の間で嫌われ、排斥される苦しみをどうにかして解決しようとイエスに会うことを求めていたのです。私たちが本当に求めているものとは何でしょうか。物質的な豊かさだけでは決して満足することはできません。真の満足感は、愛されたいという魂の要求が満たされるときに訪れるものです。これこそ私たちがイエスに出会わなければならない理由です。この点で、ザアカイは実に素晴らしい人物でした。 彼は身長も低く、徴税という仕事ゆえのハンディキャップに絶望しませんでした。 私たちも、自分自身の欠点に絶望して挫折してはいけません。ザアカイは勇気を出して一生懸命イエスを探し求めました。 私たちの中にも、このような粘り強い情熱が必要です。 (箴言 8:17)

3. イエスはイチジク桑の木の中に隠れて、イエスを見ているザアカイをご存知でした。 イエスに会いたいという彼の切実な心をイエスはしっかりと見ておられるのです。 そしてこう言われました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい」(ルカ 19:5a)。なぜイエスは彼に降りて来いと言われたのでしょうか。私たちがイエスに出会うためには、ザアカイと同じようにイチジク桑の木から降りてこなければなりません。私たちはそれぞれがそれぞれの方法でイエスを探しに来ました。イエスに会うためにイチジク桑の木に登っています。 (ガラテヤ 3:23-25) パウロにとってイチジク桑の木のような存在は「律法」でした。 しかし、問題は律法を通してはイエスに会うことができないということです。 パウロにとって律法はどのような機能を持っていたのでしょう?(ローマ 3:20;ローマ 4:20;ローマ 5:14;ローマ 5:20;ローマ 7:7) 律法は私たちに罪を知らしめます。ですから、律法を知れば知るほど、自分がどれほど醜く、恥ずべき人間であるかを深く悟ることになります。私たちにも各人のイチジク桑の木があります。それは何でしょうか? イエスを受け入れるために、私たちが握りしめ、固持してきたものは何でしょうか? 例) 体面、欲、世俗的な成功、道徳、倫理、責任感。

4. 「OOよ、急いで降りて来なさい。」この言葉は私たちに向けられた救いのメッセージです。イエスは私たちを決して見過ごすことなく、訪ねて来られます。そして救いを与えたいと願っておられます。イエスは私たちに想像を絶するほどの大きな贈り物を与えたいと願っておられます。それは罪からの救いと神の御国の約束です。 (ヨハネ 3:16;ヨハネ 3:3) 夜中にイエスを訪ねてきたニコデモに、イエスは聖霊のバプテスマと十字架の奥義を教えてくださいます。 (ヨハネ 3:8;ヨハネ 3:14) これは一方的な贈り物として私たちに与えられるものです。私たちはイチジク桑の木のような律法を通して、イエスを知ろうとします。これは私たちをますますみすぼらしくさせ、取るに足らない存在にしてしまいます。私たちがいくらイエスの前で自己を誇示しようとしても、その方法ではイエスに近づくことはできません。「降りて来なさい!」という言葉は、私たちにとっては贈り物のようなものであり、恵みです。その方が私たちの名前を呼んでくださり、その方が私たちに救いを与えてくださるとき、はじめて私たちはイエスに出会うことができます。

5. イエスはさらに、ザアカイにこう言われます。「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」(ルカ 19:5b)。 これはどれほど驚くべきニュースでしょうか。これはまさにイエスが私たちと永遠まで共に住まわれるという約束です。これがまさに永遠の命の奥義です。罪の巣窟であった私たちの魂が、今やイエスによって、聖なる聖霊が宿る美しい神殿に変わるということです。イエスの命が私たちの中に永遠に宿るからです。 (Ⅰコリント 3:16;Ⅰコリント 6:19) これはザアカイの行いや功績によるものではありませんでした。ただ一方的な贈り物である、イエスの恵みによってのみ可能なことです。これがまさに救いの奥義であり、イエスに出会うことができる唯一の道です。

6. そして、ザアカイはイエスの言葉に喜び、イエスを迎え入れるだけでなく、「私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」(ルカ 19:8)と告白します。 すると、イエスはとても喜ばれ、「きょう、救いがこの家に来ました」(ルカ 19:9)と言われました。 驚くべき、根本的な人生の変化です。どのようにして、このような変化が起こったのでしょうか。ザアカイは、イエスの無条件的な救いを純粋な心で受け入れました。疑うことも、問い詰めることも、悩むこともしませんでした。そして、彼はイエスの恵みと愛と慈悲に感激し、すぐにイエスの弟子としての生活を実践します。イエスから受けた恵みを隣人に分け与えるのです。 (マタイ 22:39-40) これが救われた者の美しい姿です。

7. パウロもこのように告白しました。「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」(ピリピ 3:8)。彼は多くのものを所有している人でした。立派な家庭に生まれ、優れたラビの弟子であり、将来を有望視されていた律法学者でした。 彼は誰より熱心に律法を守ろうとしました。しかし、イエスと出会った後、最も大切なものはイエスを知ることだと告白します。 (ピリピ 3章) そうです。イエスより貴重なものはないのです。宝の中の宝はまさにイエス・キリストを知ることです。

8. 私たちがザアカイから学ぶべき二つの教訓があります。 (1) 彼は熱心にイエスを探し求めました。たとえ、多くの欠点を持ち、みすぼらしく、周囲から嫌われる人であっても、諦めずに木に登りました。私たちもこのような情熱を持ってイエスに会おうとする姿勢が大切です。(2) 彼はイエスの無条件の恵みに即座に反応しました。 彼は「急いで降りて来なさい」というイエスの言葉に応答し、「あなたの家に泊まることにしてあるから」というイエスの言葉に躊躇しませんでした。そして、そのような恵みを与えてくださったイエスの愛に応答して、自分の隣人にもその愛を実践しようとする人でした。私たちもこのような純粋で淡白な信仰を持ち、イエスの愛に応答する者でありましょう。

祈り

愛する天の父よ。御父の神性の臨在を運ぶ者であり、相続人の特権と祝福を与えてくださり感謝します。私は、今日、父の栄光で、私の世界に影響を及ぼし、変革を起こし、聖霊の力を通して、人々の心に命と神の祝福をもたらします。イエスの御名によって祈ります。アーメン。



参照聖書

Ⅱコリント5:19-20  すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。 20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

マルコ16:19-20  主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。 20 そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。

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